回想記 - Vol. 6
1993年5月15日、ついにJリーグが開幕した。この日、開幕戦のヴェルディ対マリノスのみが他の試合よりも一日早く行われ、私たちはアウェイでの開幕に備えて大阪に移動していた。試合を翌日に控えた自分も当事者だったのだが、ホテルのテレビでこの試合を見ていて非常に不思議な感覚だった。Jリーグ自体の盛り上がりは既にわかっていたが、その中で試合をしていくということの実感が今ひとつ掴めていなかったのだと思う。
翌日のガンバとの開幕戦、私はスタメンを外れた。記憶に残っているのは、ハーフタイムに照明が消え、後半戦の開始が遅れたこと。ただ、この日は出場しなかったこともあり、今ひとつ入り込めなかった自分を思い出す。
私のデビュー戦は予想以上に早く訪れた。第4節の国立競技場での市原戦。この当時、私は右ミッドフィルダーとして出場していた。結局、先発フル出場したものの、この試合を0対1で落としてレッズは開幕戦から4連敗。しかもここまでの4試合でレッズが挙げた得点は1点のみ。
そして、次節の駒場でのヴェルディ戦、先発メンバーが大幅に入れ替わった。まず、外国人をスタメンから外し、新人(私や池田伸康、河野真一)を先発で起用。若い選手の勢いをチームの勢いに変えようという意図だったのではないだろうか。また、獲得した外国人の予想外のパフォーマンスも理由のひとつだったと思う。結果的にPK戦で勝利を収めたのだが、試合後の駒場はリーグ優勝したかのような盛り上がりであった(今考えると恥ずかしいが、試合後に選手はグラウンドを一周してサポーターに挨拶して回ったのだ)。それほどあの一勝は大きな、そして嬉しい一勝であった。さらに更衣室へ戻ると、プレミア給倍増という嬉しいプレゼントまでついてきた。
ただ、その後もレッズは勝てない日々が続き、非常に辛いシーズンであった。個人的に見れば、私はJリーグでスタメン出場するようなレベルにはなかった。それにもかかわらず、当時のあの状況では私のような選手を使わざるをえなかったチーム事情があった。私としては願ってもない状況であったが、辛かったのも事実だった。自分のレベルを理解していたため、人一倍練習した。練習しなければならなかった。試合にも出場しなければならなかったし、サテライトの試合にもたくさん出場した。
そういった状況の中、そしてチームが勝てない中、試合後のバスの周りや練習場にはたくさんのサポーターが熱心に足を運んでくれ、私たち選手に声をかけて応援してくれた。そして、一番嬉しいような悲しいような複雑な心境にさせられたのは、サテライトリーグでのレッズサポーターのヤジであった。がむしゃらにプレーしているが、まだまだ未熟な私のような選手は当時サポーターの格好の標的であったのだろう。おもしろいのは引退後に、「あの時、西野さんのことを人一倍ヤジってたのは私です」という人に出会ったこと。人一倍応援してくれていたそうだ。だからこそヤジっていたのだと。
Jリーグの歴史の始まりに、日本中が大騒ぎし、その渦の中に新人選手として放り込まれた私はじっくりと根を張っているつもりであったが、今思うと様々な波に打たれて右往左往していた。そしてこの年の11月に左足首を骨折し、長期戦線離脱することになる。