回想記 - Vol. 7

回想記 - Vol. 7

雨の中での練習だった。1993年のJリーグはセカンドステージに突入し、私は16人の試合登録メンバーには常に名を連ねるもスタメンと控えを行き来する状況で、次の試合はスタメンのチャンスが来そうだというタイミングであった。

体力的にハードな3対3のミニゲームの最中、スライディングをした瞬間に足首をひねり、”バキッ”という音がはっきりと聞こえた。「折れたな」とその瞬間、自分でわかった。すぐに森監督が自身の車で浦和駅前の病院まで送ってくれた。レントゲンにもはっきりと骨折線が入っていた。

このシーズンは浦和レッズにとって厳しいシーズンであり、けが人も多数出ていた。そこでメンバー入りしていた私が骨折による長期離脱である。チームにとっても、私自身にとっても泣きっ面に蜂状態であった。

結局、都内の赤坂病院に入院。当時はまだチーム専属の病院というものがはっきりしておらず、チームドクターは東京の慈恵医大のドクターであった。よって、診察は慈恵医大で受けたものの、病院に空きベッドが無かったため、赤坂病院で手術、入院することになった。9人部屋の一番廊下寄りのベッド。関西から埼玉へ来たばかりの私にはそれほど友達もおらず、見舞いに来てくれる人もちらほらで、入院した約1ヶ月間、精神的に落ち込みまくっていた。周りの患者ともろくに話をしなかったし、信じられないくらい暗かった。

「サッカー選手が足を折ってしまったら、ただの人以下だ」と自分を責めた。「どうしてけがをしたんだろう?」、「体調管理が足りなかったのか?」、「どうして?どうして…?」と自問自答を繰り返した。この時の精神的なショックは、現役時代のどのけがよりもひどかった。

当時、Jリーグは初年度とあって様々な面で環境が整備されておらず、けがをした選手にとっては厳しい環境だった。退院後のリハビリも新橋の慈恵医大で受けたので、退院後は毎日新橋まで通っていた。しかもリハビリのメニューはドクターが考え、グラウンド上では誰もリハビリを管理してくれないのである。精神的にも体力的にもしんどかった。だからこそ、自分でいろいろと考え、悩み、そして調べまくった。

まずは栄養について。スポーツ選手はどのような食生活を送るべきか、何をどのタイミングで食べるべきかといったことから勉強し、次に様々なサプリメントを試し始めた。長期的な目標を立て、身体作りを一から始めた。覚えている限りでは当時の私の身長と体重は187センチ・70キロで、あまりにも痩せ過ぎていた。そして、気孔の治療も始めた。これは決して怪しいものではなく、人間の持っている自然治癒力というものをフルに生かすという治療であり、大阪の先生のところへ通うようになった。

身体の次は心である。メンタル面を強化するために、メンタルトレーニングの本を読み漁り、本に掲載されていた研究所へ電話してみたり、テストを受けたりした。

ここで言えるのは、全て自分で探求し、自分でトライしていたということ。自らアクションを起こさなければ、確かなアドバイスをもらえるような環境ではなかったし、周囲に同じ境遇の人間もいなかった。ただ、自分で考え、身につけていったこれらの事は、その後のプロ生活で間違いなく自分のものとして力を発揮するようになった。

今思えば、このケガとリハビリがプロとしての自分の基盤を固める大きなきっかけとなった。本当はプロ入りする前にこうした経験は済ませておかなければならないのだが。